[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]
第1章の前半では、問いと推論の関係について論じました。
「考える」とはどういうことか?と問われたら、もっとも予想される答えは次の二つでしょう。一つは、考えるとは、問い、それに答えることです。もう一つは、考えることは推論することです。では、この二つは、どう関係しているのでしょうか。推論するとは、ある文(前提)から別の文(結論)を導出することです。この導出が妥当なものであるためには、推論が妥当でなければなりません。妥当な推論とは、前提が真であるならば、常に結論が真となるような推論です。例えば、次のような推論です。
ソクラテスは人間である。
人間は死すべきものである。
ゆえに、ソクラテスは死すべきものである。
しかし、この二つの前提から論理的に導出可能な結論は、「ソクラテスは死すべきものである」だけではありません。「ある不死なるものは、ソクラテスではない」とか「すべての不死なるものは、ソクラテスではない」とか「不死なるソクラテスは存在しない」などもこの二つの前提から導出可能です。しかし、一つの結論を選ばなければ、推論は完成しません。したがって、私たちが現実に推論するためには、論理法則以外のものを必要としている、ということです。推論することもまた行為ですから、私たちが推論するときには、何か目的があるはずです。その目的は、問いに答えるということではないでしょうか。問いに答えるために、可能な複数の結論の中から、一つを結論として選び出すのではないでしょうか。つまり、<推論とは、問いの答えを見つけるためのプロセスである>と思われます。そうすると、現実には、問いを前提にした次のような推論を行っていることになります。
ソクラテスは不死ですか?
ソクラテスは人間である。
人間は死すべきものである。
ゆえに、ソクラテスは死すべきものである。
このことは、理論的推論についてだけでなく、実践的推論についてもなりたちます。詳しくは本書で説明しましたが、別のカテゴリー「問答推論主義へ向けて」の最初の方でも、もう少し詳しく説明しました。
さらに、問いに答えるために、別の問いを立てる必要が生じる時、<問いを前提として、またいくつかの平叙文を前提として、別の問いを結論とする>推論も考えられます。このように平叙文だけでなく問いを前提や結論に含む推論システムを考えることが必要になります。これを「問答推論」と呼ぶことにします。問いを含む論理学の研究は、ヌエル・ベルナップのLogic of Question and Answerなどがあります。本書では、ポーランドの論理学者ウィシニェフスキの「問いの推論」の研究を紹介し、拡張する仕方で、問答推論を説明しました。
第1章の後半では、この問答推論をもちいて、問答推論的意味論を説明しました。